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大喜利のツボのコーディネーションゲーム

コーディネーションゲームとはゲーム理論の一つの体系で、コーディネーションとは「同調・調整」を意味する。コーディネーションゲームには参加するプレイヤーが同調することで、お互いに利益が出るという構造がある。

簡単に言えばみんなが同じ行動をすれば、みんないいことがあるよってこと。例えば「VHSとベータ」や「ブルーレイとHDDVD」の争いなんかもコーディネーションゲームの一種である。これらはどちらか一方に絞った方が好都合だということは、普段の生活の中でもおわかりだろう。
また、社会の中での習慣や暗黙の了解なども、コーディネーションゲームと同じ構造をしている。「みんながしているから」「ずっと前からそうだから」という理由で続けられていることが、多くあることでこちらも普段の経験からわかることだろう。

コーディネーションゲームは、
・みんなが同じ行動をしてしまう、したくなる
・安定(均衡)してしまうと、変えることが難しい

という特徴がある。

このコーディネーションゲームを使って、大喜利のツボについて分析して見たいと思う。

どのようなコミュニティの中にも習慣や文化といったものがあるわけで、当然大喜利というコミュニティの中にも存在する。その中でも一番重要と思われるのが「ツボ」というものだ。どのようなボケがウケる、禁止ワードがある、芸能人ボケはダメだ、などはここで言う習慣に該当する。これらは誰が決めたというものではなく、皆が知らず知らずの内に作り上げた習慣である。そしてある習慣に安定することを均衡と言う。

コーディネーションゲームには良い均衡と悪い均衡というのが存在する。ここで問題なのが悪い均衡に陥ってしま
うことである。例えば皆がおもしろくないと思っている系統ボケでも、こういうボケがウケるんじゃないかと思って皆が投稿すると、そのようなボケばかりが投票画面にならぶことになる。すると、皆がおもしろくないと思っている系統のボケが上位に来たることになる。また、新参の人はそういうボケがおもしろいんじゃないかと思ってしまい、そのようなボケを投稿し投票してしまうのである。またこのような影響は新参の人だけでなく、全てのオオギリストに影響を及ぼす可能性がある。

そして元々は皆がおもしろくないと思っているような系統のボケを評価するようなプレイヤーが多数派になり、悪い均衡へと陥るのである。そうなると、均衡から外れたプレイヤーは評価されるためにその均衡に収束していくか、評価されないまま自分の道を貫くか、大喜利を辞めるかの選択を迫られる。

もちろん大喜利というコミュニティの中にも、さらに重層的にコミュニティが形成されているため、大喜利コミュニティ内にも様々なツボがあり、多様なボケが評価される土壌はある。しかし規模の大きなコミュニティで悪い均衡に陥ってしまうと、それがスタンダードになってしまい、大喜利コミュニティ全体に広がってしまうことは十分にあり得る。

もちろん悪い均衡から抜け出す方法もある。それは皆で一斉に行動することである。そうすることにより、ある均衡から違う均衡へと移動することができる。しかしそれをするにはコミュニティの規模が大きくなるほど難しくなる。


とまあこんな感じで大喜利のコミュニティとしてのツボが出来上がるのではないかということ、そして皆がこのボケおもしろくないのになんで上位なんだろう?という疑問や、最近このサイトおもしろくなくなったなあ、前の方がおもしろかったなあ、という不満はこのような構造になっているのではないかと推測してみた。

けどまあ、結局みんな難しいこと考えずに楽しめばいいんじゃね?
自分がおもしろいって思うことやってたら、それでいいんじゃね?
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Category : 大喜利 |

1/3の純情な感情

今回は1/3の純情な感情の歌詞にある、「壊れるほど愛しても 1/3も伝わらない」という部分について考察していこうと思う。

この詩はただ単に恋愛における、思いが伝わらないもどかしさを歌ったものではなく、コミュニケーション論、言語学などの学問的な要素も含まれている、非常に興味深い詩なのである。

人に何かを完璧伝えるというのは、不可能である。それは私が机と思っている机と、あなたが机と思っている机に差異があるからである。この差異は他人である限り永遠に埋まらない。普段意識することはないが、我々はそのような不安定な社会に生きているのである。

言語の意味は始めから決まってあるのではなく、人と人とのコミュニケーションの中で作られていくのである。例えば机を机と呼ぶのは、それを皆が机と呼びだしたからであって、最初からそれが机であるわけではないのだ。このようなコミュニケーションによって言語が流通することによって、意味が形成されていくのである。そういう点では意味というのは流通であるとも言える。しかしここでの問題は、ある人(仮にAとする)が机と認識しているものをBがテーブルと認識していた場合である。これが上記で示したような差異である。

だから、人はそもそも言語の正確な意味を知ることはできない。一人一人その言語に対して持っている意味が違うからだ。それが差異になり人に正確に思いを伝えることができないのである。そして自分から放たれた言語はその時点で自分の意思とは無関係な意味を持ち、その言語の意味は受け手が決めるのである。
ここまでは言語コミュニケーションについてに限っての話をしてきたが、非言語コミュニケーション(行動やしぐさなど)についても記号論的にはなるものの、大筋はこれと同様であり、むしろそれらの方が伝わりにくい傾向にある。

つまり壊れるほど愛してると自分では思っていても、それがどのような意味を持つのかを決定するのは相手であり、1/3も伝わらないというのはむしろ当然のことなのかもしれない。
「壊れるほど愛しても 1/3も伝わらない」とはこれらのことが前提になって作られていると推測される。
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Category : 深読みJ-POP |

現代のおっぱい

なぜ男はおっぱいというものに興奮するのかと言えば、そのように規定されているからであり、それは自分自身の意思ではどうにもできない水準のものである。なぜそのように規定されているかと言うと、言わずもがな子孫繁栄のためであり、おっぱいを媒体として女性に興味を持つためである。しかし現代になっておっぱいの持つ意味や価値が大きく変容しつつある。

昔はおっぱいそのものには価値がなく、その背後にある女性という主体に価値が存在していたのだが、現代ではおっぱいそのものに価値が発生するようになってきており、その主体である女性の疎外化が進んでいる。つまり、男性はおっぱいそのものに価値を見出したことにより、おっぱいだけで満足するようになり、おっぱいと女性を別のものとして考えるようになった。

それは必要性からの欲望の乖離、つまり女性という主体が必要なくなり、おっぱい単体での価値が消費されていくのである。これはおっぱいだけでなく現代の様々なものに対して、同様に見られる現象である。この現象はいわば、現代社会の象徴的な現象であり、社会システムの大きな変化でもある。このおっぱいのみで成立する価値は、おっぱいという単位に収まらず、貧乳や巨乳などの細かい分類によって分けれらていく。
そして、おっぱいそのものに価値を見出すことによって、ネット上での画像や二次元などのリアルでないものの普及、発展に繋がっていく。これらの欲求はネットの発展を大いに助けたし、今でもネットの全回線の50%はエロ目的で使用されている。つまり、おっぱいへの欲求がここまでネットを発展させたと言っても過言ではなく、今のネット社会の起源にはおっぱいそのものへの価値を見出したことがあるのだ。

草食系男子の増加という現象もこのおっぱい理論で説明できる。いまやネットなどで簡単におっぱいが消費できる社会であり、二次元などもおっぱい同様にそれ自体に価値を持ち、消費されてきた。このように、欲求を簡単かつ、自己で解決できる状況では、手に入れるにはある意味困難を極める女性という主体の必要性がなくなり、主体への興味を失ってしまったのだ。

では、これから我々の生きる社会でおっぱいという存在はどのような変貌を遂げていくのだろうか?その変化を注視する必要がある。なぜならおっぱいへの欲求というものは、人間の基本的な欲求の一つである性欲によって構成されており、それを研究することで人間の無意識の水準の動向まで分析でき、上記のように現代社会の分析にまで応用することが可能なのである。現代のような消費化社会では、ますますおっぱいの研究が重要になってきているが、どうしてもエロというものに結びつき、それが嫌悪されてしまうため大々的には研究活動ができない状況である。しかし、低成長時代に突入し混沌とした社会の中で、社会を分析し、どのように対応していかなければいけないのかという研究の必要性が高まる中、おっぱいの研究は無視できないものになるであろう。

これらおっぱいの研究を「おっぱい学」と名付け、早急に研究機関を作るべきである。そして私はおっぱい学の第一人者として、おっぱいの頂点に君臨するのである。
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Category : 趣味 |

「POISON 〜言いたい事も言えないこんな世の中は〜」再考

POISONとは1998年に発売された、反町隆史作詞による楽曲である。
ここでは、この曲の歌詞にある「言いたいことも言えないこんな世の中じゃポイズン」という一文について、2011年においてこの詩がどのような意味を持つのか、どう評価されるべきであるのかを考えていこうと思う。

反町の言う「言いたいことも言えない世の中」を「ポイズン化社会」と定義して、現代社会に照らし合わせて考えてみると、例えば日本人的な協調行動、いわゆる「空気を読む」というやつはこのポイズン化社会の典型的な例であるし、その傾向は社会、政治、企業、学校、地域等々、大小どのようなコミュニティにも多かれ少なかれ該当する現象である。

ではまず、なぜ社会がポイズン化していくのかを考えてみよう。日本はもちろん言論の自由は保障されているし「言いたいことを言える世の中」なはずである。にも関わらず、「言いたいことも言えない世の中」となってしまうのはなぜなのか?それはフーコーが言うように、自由な社会であったとしても直接的な抑圧に劣らぬような、「社会の空気」的な拘束力が働いているからである。そもそも完全な自由というものはあり得ず、共同体の中で生きている限りその文化などの影響を受けていて、それに基づいた行動をしているからである。その中でできた自己生成的な「社会の空気」が抑圧、つまり「言いたいことも言えない」ようなポイズン化社会の原因なのである。
しかし、このような共同体に浸透している文化等自体は決して悪いのもではなく、むしろ必要なものなのである。なぜならそのような価値判断基準がないと、無の状態から判断することになり、それは不可能だからである。問題なのは「社会の空気」に反したものを排除しようとする考え方、いわゆる多様性フォビアであり、日本は特にその傾向が顕著なのである。

このようなポイズン化社会に完全に陥った現在、どのようにすべきなのか。その答えは、やはりPOISONの歌詞に隠されている。「俺は俺をだますことなく生きてゆく」という詩である。これについてはもはや細かい説明は不要であろう。幸いにも現在はツイッターやブログなどの、自己表現ツールが発達しており「俺は俺をだますことなく言いたいことを言う」ということが比較的容易である。このようなツールを用いて表現することが、ポイズン化社会を打破する一番効果的な手段ではないだろうか。

2011年からの視点でこの歌を評価してみると、1998年に作られた詩であるにも拘らず、現代社会の閉塞感を短い一文に凝縮されて表現しており、まるでこのような社会になることを予測していたかのような先見性は現代においてこそ正しく評価されるべきであるし、もはや楽曲という域を超えた作品なのではないか。

そして、今後の反町隆史の音楽活動に今後我々はどのような社会を生き、どのような思想を持てばいいのかの答えがあるのではないか、という淡い期待を抱いているのだが、反町は2001年以降音楽活動をしていない。
それは反町自身も言いたいことも言えなくなったことを示唆しているのではないのだろうか・・・
それでもPOISONの歌詞に対する評価は変わらない。我々はポイズン化社会を反町の言葉を頼りにして生きていくしかないのだから。
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Category : 深読みJ-POP |

ボケ共産主義は大喜利を衰退させる

へは゜氏が「地上の楽園 ボケ共産主義」というエントリーを更新していたので、その内容を見てみると、そこには目を疑うような内容が書かれており、それは確実に大喜利PHPを衰退させるものであると確信したので、ここにアンサーソングという形で資本主義・自由主義という立場から反論させていただく。


歴史が語るように共産主義というのは悉く失敗してきた。平等という聞こえのいい言葉を使い、自由を搾取してきた。世界平和ともたらしたのも、医療が発達したのも、パソコンができたのも、大喜利PHPができるのも、すばらしいボケが生まれるのも、全て資本主義のおかげなのだ。大前提としてそれを忘れてはならない。


なぜ資本主義にそれができて共産主義にそれができないのか?
それは資本主義には競争原理が働くからだ。競争のなかで人々は他人よりおもしろいボケを、過去の自分よりおもしろいボケをと、切磋琢磨し、そのダイナミズムの中でおもしろいボケが日々生みだされていくのだ。


しかし共産主義になったらどうだろうか?
いくつか具体例を挙げて説明しよう。

まず革命2を見てみよう。
革命2はボケの著作権を認めないとなっている。これはどういう影響をもたらすかと言うと、端的に言えば、おもしろいボケを出さなくなる、ということである。せっかくおもしろいボケをしても、そのボケの権利を認められないのであれば、「○○さんのあのボケおもしろかったー」というオオギリストとして一番うれしい会話がなくなり、ひいては創作意欲が削がれる結果になってしまうだろう。そしてPHPでおもしろいボケをすることはなくなり、考え付いたおもしろいボケはブログやツイッターに書き込まれるだろう。そう、ボケの外部流出が起こるのだ。この事態がPHPの衰退と言わないでなんと言うのであろうか。


次に革命4について。
得票率の固定化が何を生み出すかというと、これまた創作意欲の減退である。どんなボケをしても2.0ならおもしろいボケを出そうとする気がなくなるのは当然である。なぜなら評価がされないので、そもそもおもしろいという概念がなくなってしまうのである。各々結果画面を見ておもしろいボケを見つけたとしても、そこで終わってしまう。評価というものは可視化され、大衆や創作者に伝わって初めて意味を成すのであって、閉鎖的な評価というのはなんの意味もないのだ。こうなると前述した競争原理が働かなくなり、やはり衰退していく。考えてみてほしい。「カッコいい芋」と「土橋が逆シングルで手マンしてる(これは筆者がひとりうっちゃりという超絶自由主義非大喜利サイトで一位を取ったボケである)」というボケがあったとする。この二つが同じ得票というのはおかしいのは明らかだろう。もし共産主義になれば全ボケ「カッコいい芋」になる悲劇も現実味を帯びてくる。これを「カッコいい芋の大量消費」と呼ぶことにする。


また、自由主義の立場から革命3は断固として阻止しなければならない。
配給という形で完全にボケる自由を奪われているからであり、没個性化してしまうからである。大喜利の醍醐味の一つとして、ボケを見れば誰のボケかわかるというものや、特定のオオギリストのボケにばかり投票してしまうなどの、オオギリストの個性に依存した楽しみ方が完全に失われてしまうのだ。そしてこの革命が何を引き起こすかと言うと、ペニ森が「カッコいい芋」とボケ、みっこりんが「オマンコパンデミック」とボケる事態が発生してしまうのだ。これはもうカオスとしか言いようがない。また、前述した「カッコいい芋の大量消費」が発生したならば、ここで配給されるボケも全て「カッコいい芋」のみである。戦時中でさえ配給が「カッコいい芋」のみという事態は起こらなかった。我々は2010年という現代を生きながらにして、戦時中以上の貧しさを体験することになるのである。


そして「カッコいい芋」は革命7にも大きく関係してくる。
全てのボケの著作権といっても、全ては「カッコいい芋」である。つまり、対外試合において「カッコいい芋」としかボケることができないのである。なぜなら、サイトで作り上げられた技術 戦術 経験というのは全て「カッコいい芋」だからである。そうなれば対外試合の結果は火を見るよりも明らかだ。惨敗に決まっている。チーム戦であるならなおのことだ。チーム内でボケが被っているからである。さらには、現在、出身サイト対抗 大喜利フェス2010という大会が開催されているのだが、この大会は予選は出身サイトごとに分かれて戦うルールなのだ。もうおわかりだろうか?この大会にはPHP勢は64名参加している。このボケ全てが「カッコいい芋」となるのである。


革命5も「カッコいい芋の大量消費」の影響を大いに受ける。
ラジオをしたとしてもその話題は「カッコいい芋」の話題しかなくなり、全くおもしろくないものになってしまうだろう。レスも「カッコいい芋」としか付かなくなるだろう。そうなるとDJの語尾や一人称も「カッコいい芋」になっていくのは、もはや時間の問題である。ボケのタイプの当番制というのもいくつかのジャンルに分かれているが、結局全てが「カッコいい芋」となるだろう。

ここまで来ておわかりだろうか。そう、このボケ共産主義の世界は「カッコいい芋」で支配されるものとなってしまうのだ。革命1で本当に赤い人の強いな権力による統治が掲げられているが、その強い権力を持ってしても「カッコいい芋」には抗えない。知らず知らずのうちに支配されていき、やがて大きな流れになった「カッコいい芋」には誰も逆らえないのである。全ては「カッコいい芋」に収斂していくのだ。


以上の理由から断固としてボケ共産主義を拒否すべきである。さもなくば「カッコいい芋」が支配し、全てを飲み込む世界が待っている。
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