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女子力という言葉が流行って久しいが今巷で言われているような女子力というものには正直納得しかねる。
そもそも女子力とはなんなのか。定義すらはっきりしていない。
なぜこんな言葉が生まれたかといえば、マジレスすると女性たちにいろいろと消費させるためのマーケティングに使われているだけだと思うのだが、仮に女子力というものを「どれだけ男にモテるか」と定義した場合どのようなものが女子力となりうるのかを考えてみた。

それらは三項目あり、
1.やらせてくれそう感
2.いい匂い
3.巨乳

ではないだろうか。
以下で詳細に説明していく。

1.やらせてくれそう感
やらせてくれそう感というのはその言葉の通りの意味である。
別にビッチになれと言ってるわけではなく、実際にはやらせなくてよく、やらせてくれそうという期待を持てればそれでいい。
言い方は悪いが男はやっぱりやらせてくれない子よりはやらせてくれる子の方がいい。
そこから恋愛が生まれるかもしれないし、やらせてくれると情がわくし、出し惜しみする必要は全くない。
となればそういう期待を持てる女子にちやほやするのは当たり前だろう。
特に初対面ともなれば他の判断基準が乏しいため、より重視される傾向にある。
例えば合コンなどでは重要になってくる。
性的に見られるということを嫌悪する女性は多いかもしれないが、性的な部分こそが女性最大の魅力ではないのだろうか。


2.いい匂い
匂いは非常に重要で、容姿の補正になるし、逆にかわいい子でも匂いがよくなかったりするとダメな場合もある。
匂いは生物的な感覚であり、本能的に好き嫌いの判断をしてしまうのだろう。
このような無意識に語りかけてくる要素はでかい。
ときに、まんこの善し悪しはよく締まりの良さだとか、色などで語られることが多いが、実際男はそんなところは気にしていない。まんこなんて挿れてしまえばどれもあまり変わりないし、だからこそ誰のまんこかが重要になってくるのだ。
締まりや色を気にする男など童貞くらいだろう。
私まんこの締まり褒められてことあるから気にしてないなんて嘘だ、という女子もいるかもしれないが、やらせてくれた子のまんこは貶すはずがないし、褒めるのが普通だろう。
しかし匂いだけに注意をしてほしい。それだけで匂いがダメなだけで萎えてしまうこともあり、それはどんなにかわいい子でも同様なのである。
話は逸れたがなにわともあれ匂いというものは非常に重要なのである。
もはやそれだけで勃起してしまうこともあるレベル。


3.巨乳
この世に貧乳好きの男は存在しない。
貧乳が好きと言ってる男は「貧乳でもいい」というだけなのだ。
それは自分で認識してる場合もあるし、貧乳が好きと思い込んでる場合もある。
「貧乳でもいい」という人はう女性の好みにおいておっぱいの優先度が低い人である。
お尻やまんこが好きだとか細身の子が好きだとかの場合おっぱいの大きさは重要視されない。
その場合巨乳の子はやはり競争率が高くなるために貧乳好きを公言し競争を避けニッチを狙う差別化戦略である。
しかし重要視はしなくても巨乳に越したことはない。
そしておっぱいが好きな人にとってはやはり大きさが一番重要になってくる。


主観も結構入ってるとは思うがこの三つが揃えばかなり魅力的な女子なのではないかと思う。
巨乳だけは自分ではどうにもしようがない要素だが残りの二つだけでも十分魅力はある。
一般的に言われている女子力のようなものは男にとってはマジでどうでもいいものばかりか、それを間に受けてる女子はやばいみたいな風潮もあるので、是非参考にしていただきたいと思う。

ちなみに男子力という言葉がない理由はその言葉自体がキモいからだと思う。
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フレーミング効果とは行動経済学の分野でエイモス・トベルスキーとダニエル・カーネマンが提唱した概念で物事を説明する枠組み(フレーム)によって人の認識が変わるというものである。
そもそも人間とは何が起こったかという事実ではなく、何が起こっていると感じたかという認識によって行動するので、同じ事実でもフレームによって認識の仕方が変わってしまうのだ。

例えば、ある伝染病に1,000人の人間が感染した。放置すると全員が死亡する。対策案として2つの対策が提示された。どちらの対策が好ましいだろうか。

問1
A案による場合、300人が助かる。
B案による場合、70%の確率で全員が死亡する。


次に同じ問題でどちらの対策が好ましいだろうか。

問2
C案による場合、700人が死亡する。
D案による場合、30%の確率で全員が助かる。


実はA案とC案、B案とD案は同じなので、問1でA案を選べば問2でC案を選ぶべきなのだが、問1ではA案、問2ではD案を選んでしまう傾向にある。
これは問の提示のフレームに認識が左右される例である。


これをおっぱいに応用して考えてみよう。
つまり、おっぱいの提示の仕方によってその認識が変わるということである。
同じおっぱいでもいつでも揉めるおっぱいと揉めそうで揉めないおっぱいとでは価値が変わってくるのである。
裸のおっぱいと見えそうで見えないおっぱいも同様である。
チラリズムがなぜ世の男性を惹きつけるのかもフレーミング効果で説明できるのだ。

なぜこのように認識が変わってしまうのかというと、人間は価値判断をするときに自分の中の参照点を基準にして判断しているからである。
その判断は絶対評価ではなく相対評価なのだ。
揉めそうで揉めないおっぱいは揉めない状態に参照点があり、揉めるかもしれないという期待を持たせるおっぱいであるために、揉めるおっぱいという参照点が揉める状態にあるおっぱいよりもより価値が高いように認識するのである。
同様にいつでも見れるおっぱいより見えそうで見えないおっぱいの方が価値が高いように認識する。
このようにフレームと参照点次第で全く同じものでも全く違うように見えてしまうのである。
また、フレームは同じでも参照点が違う人が同じものを見ても全く違うように見えるのだ。


しかし最も重要な点はどのおっぱいも素晴らしいということである。
どのようなフレームで提示されようがおっぱいはおっぱいであることに間違いはなくどれも素晴らしい。
全てのおっぱいに幸あれ。


参考文献・文献案内







今回は1/3の純情な感情の歌詞にある、「壊れるほど愛しても 1/3も伝わらない」という部分について考察していこうと思う。

この詩はただ単に恋愛における、思いが伝わらないもどかしさを歌ったものではなく、コミュニケーション論、言語学などの学問的な要素も含まれている、非常に興味深い詩なのである。

人に何かを完璧伝えるというのは、不可能である。それは私が机と思っている机と、あなたが机と思っている机に差異があるからである。この差異は他人である限り永遠に埋まらない。普段意識することはないが、我々はそのような不安定な社会に生きているのである。

言語の意味は始めから決まってあるのではなく、人と人とのコミュニケーションの中で作られていくのである。例えば机を机と呼ぶのは、それを皆が机と呼びだしたからであって、最初からそれが机であるわけではないのだ。このようなコミュニケーションによって言語が流通することによって、意味が形成されていくのである。そういう点では意味というのは流通であるとも言える。しかしここでの問題は、ある人(仮にAとする)が机と認識しているものをBがテーブルと認識していた場合である。これが上記で示したような差異である。

だから、人はそもそも言語の正確な意味を知ることはできない。一人一人その言語に対して持っている意味が違うからだ。それが差異になり人に正確に思いを伝えることができないのである。そして自分から放たれた言語はその時点で自分の意思とは無関係な意味を持ち、その言語の意味は受け手が決めるのである。
ここまでは言語コミュニケーションについてに限っての話をしてきたが、非言語コミュニケーション(行動やしぐさなど)についても記号論的にはなるものの、大筋はこれと同様であり、むしろそれらの方が伝わりにくい傾向にある。

つまり壊れるほど愛してると自分では思っていても、それがどのような意味を持つのかを決定するのは相手であり、1/3も伝わらないというのはむしろ当然のことなのかもしれない。
「壊れるほど愛しても 1/3も伝わらない」とはこれらのことが前提になって作られていると推測される。
なぜ男はおっぱいというものに興奮するのかと言えば、そのように規定されているからであり、それは自分自身の意思ではどうにもできない水準のものである。なぜそのように規定されているかと言うと、言わずもがな子孫繁栄のためであり、おっぱいを媒体として女性に興味を持つためである。しかし現代になっておっぱいの持つ意味や価値が大きく変容しつつある。

昔はおっぱいそのものには価値がなく、その背後にある女性という主体に価値が存在していたのだが、現代ではおっぱいそのものに価値が発生するようになってきており、その主体である女性の疎外化が進んでいる。つまり、男性はおっぱいそのものに価値を見出したことにより、おっぱいだけで満足するようになり、おっぱいと女性を別のものとして考えるようになった。

それは必要性からの欲望の乖離、つまり女性という主体が必要なくなり、おっぱい単体での価値が消費されていくのである。これはおっぱいだけでなく現代の様々なものに対して、同様に見られる現象である。この現象はいわば、現代社会の象徴的な現象であり、社会システムの大きな変化でもある。このおっぱいのみで成立する価値は、おっぱいという単位に収まらず、貧乳や巨乳などの細かい分類によって分けれらていく。
そして、おっぱいそのものに価値を見出すことによって、ネット上での画像や二次元などのリアルでないものの普及、発展に繋がっていく。これらの欲求はネットの発展を大いに助けたし、今でもネットの全回線の50%はエロ目的で使用されている。つまり、おっぱいへの欲求がここまでネットを発展させたと言っても過言ではなく、今のネット社会の起源にはおっぱいそのものへの価値を見出したことがあるのだ。

草食系男子の増加という現象もこのおっぱい理論で説明できる。いまやネットなどで簡単におっぱいが消費できる社会であり、二次元などもおっぱい同様にそれ自体に価値を持ち、消費されてきた。このように、欲求を簡単かつ、自己で解決できる状況では、手に入れるにはある意味困難を極める女性という主体の必要性がなくなり、主体への興味を失ってしまったのだ。

では、これから我々の生きる社会でおっぱいという存在はどのような変貌を遂げていくのだろうか?その変化を注視する必要がある。なぜならおっぱいへの欲求というものは、人間の基本的な欲求の一つである性欲によって構成されており、それを研究することで人間の無意識の水準の動向まで分析でき、上記のように現代社会の分析にまで応用することが可能なのである。現代のような消費化社会では、ますますおっぱいの研究が重要になってきているが、どうしてもエロというものに結びつき、それが嫌悪されてしまうため大々的には研究活動ができない状況である。しかし、低成長時代に突入し混沌とした社会の中で、社会を分析し、どのように対応していかなければいけないのかという研究の必要性が高まる中、おっぱいの研究は無視できないものになるであろう。

これらおっぱいの研究を「おっぱい学」と名付け、早急に研究機関を作るべきである。そして私はおっぱい学の第一人者として、おっぱいの頂点に君臨するのである。
POISONとは1998年に発売された、反町隆史作詞による楽曲である。
ここでは、この曲の歌詞にある「言いたいことも言えないこんな世の中じゃポイズン」という一文について、2011年においてこの詩がどのような意味を持つのか、どう評価されるべきであるのかを考えていこうと思う。

反町の言う「言いたいことも言えない世の中」を「ポイズン化社会」と定義して、現代社会に照らし合わせて考えてみると、例えば日本人的な協調行動、いわゆる「空気を読む」というやつはこのポイズン化社会の典型的な例であるし、その傾向は社会、政治、企業、学校、地域等々、大小どのようなコミュニティにも多かれ少なかれ該当する現象である。

ではまず、なぜ社会がポイズン化していくのかを考えてみよう。日本はもちろん言論の自由は保障されているし「言いたいことを言える世の中」なはずである。にも関わらず、「言いたいことも言えない世の中」となってしまうのはなぜなのか?それはフーコーが言うように、自由な社会であったとしても直接的な抑圧に劣らぬような、「社会の空気」的な拘束力が働いているからである。そもそも完全な自由というものはあり得ず、共同体の中で生きている限りその文化などの影響を受けていて、それに基づいた行動をしているからである。その中でできた自己生成的な「社会の空気」が抑圧、つまり「言いたいことも言えない」ようなポイズン化社会の原因なのである。
しかし、このような共同体に浸透している文化等自体は決して悪いのもではなく、むしろ必要なものなのである。なぜならそのような価値判断基準がないと、無の状態から判断することになり、それは不可能だからである。問題なのは「社会の空気」に反したものを排除しようとする考え方、いわゆる多様性フォビアであり、日本は特にその傾向が顕著なのである。

このようなポイズン化社会に完全に陥った現在、どのようにすべきなのか。その答えは、やはりPOISONの歌詞に隠されている。「俺は俺をだますことなく生きてゆく」という詩である。これについてはもはや細かい説明は不要であろう。幸いにも現在はツイッターやブログなどの、自己表現ツールが発達しており「俺は俺をだますことなく言いたいことを言う」ということが比較的容易である。このようなツールを用いて表現することが、ポイズン化社会を打破する一番効果的な手段ではないだろうか。

2011年からの視点でこの歌を評価してみると、1998年に作られた詩であるにも拘らず、現代社会の閉塞感を短い一文に凝縮されて表現しており、まるでこのような社会になることを予測していたかのような先見性は現代においてこそ正しく評価されるべきであるし、もはや楽曲という域を超えた作品なのではないか。

そして、今後の反町隆史の音楽活動に今後我々はどのような社会を生き、どのような思想を持てばいいのかの答えがあるのではないか、という淡い期待を抱いているのだが、反町は2001年以降音楽活動をしていない。
それは反町自身も言いたいことも言えなくなったことを示唆しているのではないのだろうか・・・
それでもPOISONの歌詞に対する評価は変わらない。我々はポイズン化社会を反町の言葉を頼りにして生きていくしかないのだから。
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