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今回は1/3の純情な感情の歌詞にある、「壊れるほど愛しても 1/3も伝わらない」という部分について考察していこうと思う。

この詩はただ単に恋愛における、思いが伝わらないもどかしさを歌ったものではなく、コミュニケーション論、言語学などの学問的な要素も含まれている、非常に興味深い詩なのである。

人に何かを完璧伝えるというのは、不可能である。それは私が机と思っている机と、あなたが机と思っている机に差異があるからである。この差異は他人である限り永遠に埋まらない。普段意識することはないが、我々はそのような不安定な社会に生きているのである。

言語の意味は始めから決まってあるのではなく、人と人とのコミュニケーションの中で作られていくのである。例えば机を机と呼ぶのは、それを皆が机と呼びだしたからであって、最初からそれが机であるわけではないのだ。このようなコミュニケーションによって言語が流通することによって、意味が形成されていくのである。そういう点では意味というのは流通であるとも言える。しかしここでの問題は、ある人(仮にAとする)が机と認識しているものをBがテーブルと認識していた場合である。これが上記で示したような差異である。

だから、人はそもそも言語の正確な意味を知ることはできない。一人一人その言語に対して持っている意味が違うからだ。それが差異になり人に正確に思いを伝えることができないのである。そして自分から放たれた言語はその時点で自分の意思とは無関係な意味を持ち、その言語の意味は受け手が決めるのである。
ここまでは言語コミュニケーションについてに限っての話をしてきたが、非言語コミュニケーション(行動やしぐさなど)についても記号論的にはなるものの、大筋はこれと同様であり、むしろそれらの方が伝わりにくい傾向にある。

つまり壊れるほど愛してると自分では思っていても、それがどのような意味を持つのかを決定するのは相手であり、1/3も伝わらないというのはむしろ当然のことなのかもしれない。
「壊れるほど愛しても 1/3も伝わらない」とはこれらのことが前提になって作られていると推測される。
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